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桑田真澄 東大大学院合格!!の快挙 末は博士か!?清原



先日の清原の醜聞とは裏腹に、今度は桑田真澄のハッピーなニュースです。
昨日桑田真澄が東大大学院総合文化研究科の大学院研究生に合格した
と発表があった。

12日に自宅に届いた合格通知に

「ちょっとドキドキしたけど、中を見て『入学許可』という文字が見えた時は、
やっぱりうれしかった」

とコメントした。

早大大学院を首席で卒業し今度は東大大学院だ。研究生として、在籍期間のメドは2年。
そして英語の論文提出などで合格すれば博士号がもらえる。

日本球界初のドクターの誕生だ。ドクター桑田になることを期待している。

そんな桑田にスポットを当ててみる。

1968年4月1日大阪府八尾市生まれの45歳。

1980年4月、八尾市立大正中学校に入学
1983年4月、PL学園高校に入学

以後の活躍はご存知のとおり。

今日はちょっとした桑田真澄の逸話を紹介します。
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この動画は桑田真澄が1年の時の甲子園のときのものです。
よく見ると背番号が1でなく11なんです。控え投手ですね。

桑田真澄はPL学園高校に入学したものの最初は芽が出ませんでした。

そして母親に
「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」

すると母親は
「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」
と言った。

それでも「もう辞めさせて下さい」と何度も監督に言いに行こうと
思いながら練習を続けていた。

そんな時、彼の以後の運命を変える人物と出会う。
この運命の人物がいなかったら今の桑田真澄はいなかった。

かの国民栄誉賞の王さんもそんな出会いがあった。

1本足打法の生みの、親荒川コーチとの出会い、そして水原監督との
出会い。これがなければ王さんも世界の本塁打王にはなれなかったはず。

29打数ノー安打でも王さんを使い続けた水原監督の眼力。
後年、王さんの父親は水原先生がいなければ今日の王はなかったと
語っていた。

それほど出会いと言うものは、その人の運命を変える。
しかしそれがプラスに働けばいい結果が出るがマイナスに働くことも
ある。後は運命としか言いようがない。

この桑田真澄で出会いの相手は清水一夫氏だ。

WIKIを引用しながら話を進めます。

野球部監督の中村順司は、市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、
夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)
した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する

そうこれが桑田真澄の成功への階段の第一歩となります。

この清水が桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き、
「おい、あんな選手がおるんか。凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。
私に任せてくれ。夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田を投手に戻す。
清水コーチのマンツーマンの指導が始まる

そうなんです。一目見て分かるナーンテ凄い眼力ですね。
そうすると中村順司監督は見る目がなかったのかと言うと、そうでもないと
いえるかも。というのは自分自身に桑田真澄の投手としての才能を
見抜くことが出来なかったけれど、清水一夫氏を臨時投手コーチとして
招いたということは、間接的に影響しているといえる。
中村順司監督が清水一夫氏を迎え入れなければ結果が成り立たないからだ。

話を先に進める。

大阪府大会において、さして強いとは思えないチーム相手に、よたよたとした試合展開で
やっと勝つPLの有様を見かねた清水一夫が、4回戦の大阪球場での吹田高校戦前に
「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。
ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、
ワシは一切野球から足を洗おうやないか」と中村へ桑田先発を進言。
当初、中村は難色を示したが、清水の並々ならぬ自信と迫力、そして投手コーチとしての力量に、
思い切った起用を決意。試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生桑田の公式戦先発デビュー
が急遽、決まる。試合前は同一チームにもかかわらず上級生は桑田を一人にし、
「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田を苛めた。
この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護、桑田は相手打線を散発2安打に抑え、完封する。
結果で上級生を黙らせた桑田(そして清原)の快進撃がそこから始まる。

このWIKIの文章でも分かるとおり、同じ野球部員にさえも信頼感
のなかった桑田を大抜擢したんです。自分の野球生命をかけて。

そして1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に出場。
決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝する。

ここからが桑田真澄の本当の野球人生のスタートに立った。

それももうひとつ桑田真澄の注目点がある。
これもWIKIから引用する。

1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田は、中村監督に全体練習の短縮化(3時間程度)
と個人練習の強化、大会後の投手のノースロー調整を提案。
中村がこれを了承し、以後、PLの黄金時代(1983年夏-1987年夏)を迎えることとなる。

どうですか。きちんと実績を出し、PLの野球部の欠点をきちんと把握して
監督に進言する。1年生部員ですよ。普通ならクもんですよね。

こんな理論的なことが当時の桑田真澄には備わっていたんですね。
それが今日の東大大学院合格に繋がったんだと思います。

早くドクター桑田の名を聞きたいですね。



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